cafe chotto視点でおおくりする福井の観光穴場情報や
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白山神社平泉寺の楽しみ



小道を下ると、
ひらけたところに出ます。



向こうに見える杉木立の奥に
南谷三千六百坊跡があります。

平泉寺はその最盛期には六千坊の僧坊があったとも
8千人の僧がいたとも言われています。
その住居の跡の一部発掘されたものを見学することができるのです。

8千人の僧侶がいる寺の規模というのはどのくらいでしょうか。
永平寺の修行僧は200人
高野山の人口は現在4000人程度(うち僧侶が1000人)と言われています。

にわかに信じがたいことですが、ひとつの大きな都市がこの山間部に存在していたのです。



小道を下ったところの右手に、その賑わいを感じられる場所があります。



小道の脇のお堂。

近くで見るとなかなかに素敵な意匠。
さりげなく南天が植えられているのも素敵です。


そのお堂のさらに奥に
こんなおっきな岩があります!



といっても大きさは写真では分からないと思います^^;
鳥居自体が優に人の背丈を越しています。


巨石って近くでみると圧倒的でそれだけで感動します。
ぜひ間近でご覧になってください。

この岩は、噴火で飛んできたような岩というより
切り出された格好をしていて人工的。


この岩は「謀反岩」という伝承があるみたいです。
飛鳥井宝光院と波多野玉泉坊という二人の兄弟の僧が
石運びの技術を競い合ったもののようです。
のちに宝光院が玉泉坊を滅ぼすに至り、この岩は
「謀反岩」と命名されたのだそうです。

岩運びというと、力自慢のことのように捉えられるかもしれません。
たくさんの人足を使ってのことでしょうから、
権勢自慢という趣もあったかもしれません。

これだけの岩を運ぶのにどれほどの人足が必要だったのでしょう。

またさらに、
平安〜鎌倉時代に庭造りの心得がまとめられた
日本の庭造りのバイブルといわれる「作庭記」では
まず「石をたてん事」と冒頭にあり
庭にどんな岩をどんな位置に置くかということが肝心要でした。

境内に優れた岩を置くということは
非常に重要性が高く、ステイタスなことであったのかもしれません。


さて
南谷三千六百坊跡地へ向かいます!


素敵な木を目印に・・・




ちょっと歩きます。



ソフトクリーム屋さんに「熊出ますか?」とうかがったら
「むしろカモシカがよく聞きます」と仰ってました。

カモシカなら会ってみたいですね^^

でも熊も怖いので、鈴なんかを鳴らしながら行くといいと思います。



この看板が目印です!





ここから長く、石畳が続きます。
ここで発掘された石畳の規模は国内最大級のものと言われます。


司馬遼太郎さん、白洲正子さんがいらっしゃった当時は
まだこの僧坊跡は発掘されておらず
六千坊ということも伝承としてのみ認識されていました。

この石畳をご覧になられていたら
どんな感想をお持ちになったでしょうか。



お二人の本を読んでいてchotto店主が感じるのは

この石組みの技術は穴太衆(あのうしゅう)のものではないかということ。


「穴太の黒鍬」とも言うそうですが
滋賀の坂本あたりの人たちは、石組みを得意としたそうで
戦国時代の末期にお城の土塁が石垣になっていたときなど
穴太の技術者の需要がおおいにあがったと、
司馬遼太郎さんの「街道をゆく 湖西のみち」にあります。


当時の石組技術を坂本の黒鍬者が一手に引き受けていたのなら
それ以前の時代にこれだけの規模で石畳を作ったのも
坂本の人たちではないのかと思うのです。

坂本には比叡山延暦寺があり、平泉寺は平安時代には延暦寺の末寺となりましたから
技術者の行き来はあっただろうと推測されます。


前述のとおり、この鳥居の恰好も坂本にある日吉神社との共通性が言われていますし



勝山市の野向町には、平野さんという古いおうちがあるのですが
野向町史の「高尾の息吹」によると
昔は比良野と名乗り、元は佐々木信照采女正を祖とし、
1571年に近江国比良城から家臣50騎とともに野向町に落ち延びてきたのだそうです。

近江の佐々木氏一族といえば、源平合戦にも登場する大変歴史の古い豪族です。
比良城というと
大津市に比良という地名がありますし
湖東のほうに比良山もあり
そのどちらかに由する豪族でしょう。



1571年は織田信長による比叡山焼き討ちの年。
焼き討ちを逃れて来たのでしょう。
行き来の多かった平泉寺のある勝山を頼って来たのではないでしょうか。

焼き討ちのときに越前への道を守っていたのが羽柴秀吉でしたが
秀吉は母方が日吉神社の係累で
焼き討ちから逃れる人を少し目こぼししていたことが
白洲正子さんの「近江山河抄」などで書かれています。



またさらに、野向町竜谷の野津又地区では
佐々木長勝氏が蓮如上人に帰依し、長勝寺にて一向宗の布教活動をしていました。
長勝氏は佐々木高綱の末裔。
佐々木高綱は源平合戦の中の宇治川の戦いで、梶原影季と先陣争いをしたことでとても有名です。
やはり近江佐々木氏の一族ですので
比良野家は長勝氏を頼ったのかもしれません。

比良野家の裏手には高尾山がありますが
高尾山には佐々木長勝氏が野津又城を築いて、一揆勢として柴田義宣と戦いました。
この戦いを支援したものとも考えられます。


当時の勝山は、今の市街地には街はなく、
加賀からの道が繋がっている荒土町や野津又のあたりが街として栄えていました。
長勝氏や比良野氏はこのあたりの街を近江佐々木氏の新たな拠点としようとしていたのかもしれません。
また、滋賀には門徒が多くいましたので
黒鍬者や近江商人なども多く移住していたのかもしれません。



これは店主の勝手な想像なのですが
店主は近江商人の考え方に大いに惹かれるところがありますので
滋賀と勝山が繋がっていることが大変うれしいのです。





さて、さきほどの看板を右に折れますと
このように石畳と僧坊跡の石垣が続きます。



これをさらにまっすぐ行くと

若宮神社の大杉を見ることができます!


周りの杉の木と比べていただくと分かりやすいのですが
大変大きな木です・・・。




大変な迫力!ちょっと怖いです!!

店主がこの木を初めて見たのは20年ほど前ですが
以降、あちこちで様々な巨木を見ましたが
これほど情感に切迫してくるような雰囲気の木は
なかったと思います。


この木は440年ほど前の一向一揆による焼き討ちを見守った木なのだそうです。
そのための迫力でしょうか。

少し歩きますが、こちらの大杉は皆様も必ずご覧になってください。



谷の下の女神川から霧が立ち込めてきました。

これはやばい!
霧にまかれる!

そそくさと退散しました(-▽-;)




まだ続きます!